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■独白「トリガー」

 自分にとって、朝日・岩波・日教組らの洗脳が解け始めるトリガーになったことってなんやろか?

 小林よしのり・井沢元彦共著「朝日新聞の正義」を読んでいて、ふと思った。
 ちなみに小林氏は「右翼からの投書」、井沢氏は「山本七平さんの本」だそうだ。


 今でも完全に解けたわけではないが、昔からその素養はあったように思う。

 今だから言えるといえばそうなのだが、いわゆる「日本は悪」だとしたがる説明(洗脳要領があるのかどうか知らないが、子供にとっては非常に巧妙で性質が悪い)にはなんとなく違和感があった。
 しかし当時はそんなことより、休み時間に運動場でドッヂボールをする場所をどう確保するだとか、クラブが終わってから何を買い食いしようかだとかのほうが関心は高かった。なんてったってぼくら「団塊Jr」。親の世代でさえ戦争を知らない。


 歴史にはそれなりに興味はあった。もちろん最初は戦国/織豊時代で、このあたり普通の男の子。
 
 「二〇三高地」に衝撃を受け、いきなりロシア兵に撃ち殺されるという夢を見たこともあった。
 学校の図書館で、戦車の中で黒焦げになった日本兵の写真を見たりもした。
 原爆のえげつない写真も結構見た。見ておいたほうが良いのだろうと漠然と思っていた。

 誰もが持っている人とちょっと違う部分というのが、ぼくにとってはこのあたりなのかもしれないが、一応は普通っぽく振舞っていた。
 とりあえず集団では無視される存在ではなかったし、俗に言う「オタク」組みではないグループに属してはいた。基本的には外で走り回って遊ぶタイプ。

 百貨店(そごうか大丸)で開催されていた「戦争展」なる催しも結構出かけた。「連合艦隊」「零戦燃ゆ」も観た(パンフがある)。1人では行けないので、友人を無理やり誘って行ったことも多々あったと思う。

 少し時間を遡るが、家の近くに芝居の衣装や小物を扱う店があって、そこに並べられていた陸海軍階級章になぜか非常にときめいたことも良く覚えている。
 「一等兵」が安いのでねだったこともあった。それを祖母に不思議がられていたことも。。。
 関係無いが、当時はドリフでも「兵隊ネタ」をやっていた。


 そうそう、祖母は大正十五年生まれ。誕生日が一月三日だからか、彼女は「大正十五年、昭和元年」と二通りの生まれ年を言った。「大正十五年」を強調したかったのかもしれなかったが、アホでノーテンキなぼくには「がんねん」と言う言葉の響きが非常に新鮮に聞こえた。
 あたりまえだが、昭和60年台初め頃まで「がんねん」と言えば大体は昭和1年のことであり、既にぼくらにとっては想像できないくらい大昔のことを意味していた。

 祖母にとって敗戦の年がちょうど二十歳。今となってはもう確認しようも無いが、とてつもない苦労と経験をしただろう。大東亜戦中は銃後の守りとして大いに活躍したであろうことも想像に難くない。
 機銃掃射(「飛行機が撃ってくる」というニュアンスだったように記憶している)が怖かったと、本当にうろ覚えだが言っていた。
 そのあと拾い集めたというぐにゃっとへしゃげた銃弾を、今はぼくが持っている。

 祖父に関してはぼくはほとんど知らない(大阪大空襲でという話を薄っすら聞いたような)。
 それを知っていただろう父も鬼籍に入って既に久しい。


 その祖母が国鉄天王寺駅近くで当時よく目にした浮浪者のことをルンペン(今は使えない言葉なんだろう)と呼び、大阪市立大学のことを「アカばっかり」と言い、中国のことを「シナ」と呼んでいた(その影響かどうか知らないがぼくは今でも「メンマ」のことを「シナチク」と言う)。

 朝日やどこぞの団体の如くすぐ軍国主義者・差別主義者だと決め付けるのは正しくない。ぼくらはそんな簡単な世界に住んではいない。当時は、そして今でもこれが現実なのだ。

 どこの家庭でも自分の子供には「ルンペン臭いし危ないから近づきな」と注意していたはずだ。
 ぶっ飛んだ親なら「みんな同じ人間だから抱擁してお金と食事を世話してあげなさい」とか言ったかもしれないが、それはあくまで例外で、実行している人をぼくは見たことが無い。

 少し歩けば飛田新地(いわゆるチョンの間)もあったし、そういう現実を子供ながらに見ることが出来た。
 もちろん親には「下(注)に行ったらあかんで」と言われていたし、当時は何をする場所かというのがそもそもわからない。何となく聞くのはタブーという雰囲気もあるにはあったように思う。
 (注)「下」というのは、飛田新地はぼくらの住んでいた場所より、一段二段低い低地にあったので「下」という言いかたをしたのだろうと思う。

 少なくとも、ちょっと物心がついた頃、差別や黒い大人の世界は現実にあるということ、そこを居場所として一生懸命生きている人もいるということ、アカはかなり胡散臭いということ、シナと呼ばれていた国がいつのまにか中国になってしまったことが何かヘンだということ、その他諸々が心のどこかに記憶された。
 これはぼくにとって非常に大事なことだったようだ。

 多分、もっともっとその「素養」はあったはずだが、それは今は思い出せない。


 さて、それから年月が過ぎ、ある時期までは普通に洗脳されたサヨク(的空気に同調した中)で生活を送っていたと思う。

 皇室に対して不敬な事も言った(内容も覚えているが自分にとってこれは墓まで一緒だと思う)。一応本は読むのでサヨクが喜ぶような自虐知識も持っていた。その場の空気でそれを披瀝することもできた。
 今となってはお笑い種だが、朝日新聞に書いてあることは本当のことだと思っていた。
 そのときは、それがアホではない良い人間という証明になっていると勘違いしていたのだ。全て連中の洗脳のおかげだ。

 昔のことを悪く言い、自分の国をけなし、公権力にはとにかく善悪無しに反抗する。そして作られた被害者・被差別者には情緒的に反応し、「良い人」を演じる。
 それが先生に誉められる、とりあえず周りの空気と同調する手段だったのだ(ある意味「和」を乱さないということにもなるのだが)。

 ぼくはかけっこが多少速かっただけで、あまり頭が良くなくて物事を深く考える集中力と思考の構成力・表現力がほとんど無いに等しいのだが、それを隠して普通に「まあまあできる子」だと周囲に認識させるにはそうならねばならなかった。その当時の子供にはそんな子供も結構多かったんではないだろうか。
 アホだと思われないために、空気を作り出したサヨクに同調したのだ。もちろん意識などしない。
 だからその空気を今でもしつこく作り出している連中を、ぼくは限りなく憎悪することになる。

 そうして社会人になり(祖母はぼくが16歳になる前に他界した)、転職も経験した。この転職間に海外旅行を知り、それから数年間は毎年海外に出た。年に1回、多いときは3回出国した年もあった。今はもうとてもムリな話。


 2001年9月、ぼくはミャンマーを旅していた。

 有名な仏教遺跡群のあるバガン近くのニァゥンウーからマンダレーに、ヤンゴンエアに乗って移動した日。
 ぼくはできるだけ安く済ませれば良いや、と甘く考えていただけの根性の無い-現に飛行機に乗る-バックパッカーだったので、普段はテレビも無い安宿に泊まっていたが、この日はどうしてもテレビが見たくなり1ドル握らせて部屋にテレビを用意してもらった。

 そうして久しぶりに見たテレビに映っていたのはあの衝撃的な映像。
 宿の人間がアメリカだ、ニューヨークだと言っていた。

 非常に簡単だが首都のヤンゴンでもなかったボディ・チェックが、ド田舎のニァゥンウーの空港であったな、とそのとき思った。
 ホントかウソか、なんだか訳のわからない状態でその日を過ごした。軽くマンダレーの観光もしたはずだ。
 テレビはずーっと同じ内容だったと思う。
 
 その日の夜から酷い下痢にみまわれた。

 その後ヤンゴンに戻り、ピックアップ・トラックでたまたま居合わせた旅行者たちとゴールデン・ロックで有名なチャイティーヨパゴタに向かって山道を登っていたとき。
 オーストリア人家族が事件の話(「ニューヨーク」「エア(ジェットだったかも)プレイン」「クレイジー」「ボム」、聞き取れた単語はその程度)をしていた。
 ぼくの隣を歩いていた世界一周の道中である日本人青年バックパッカーは、それが何の話だがまったく知らない様子でぼくに尋ねてきた。

 「何ですかあのあれ」。

 ぼくは知っていることを伝えた。ニューヨークのビルに飛行機が突っ込んでめちゃめちゃになっていると。そしてそれはどうもテロのようであると。
 それを見ていたオーストリア人が、ぼくらにこう言った「xxx(聞き取れず)カミカゼxxx(聞き取れず)クレイジーxxx(聞き取れず)カミカゼクレイジー」。

 ぼくはちょっと待てと思った。
 当時はまだまだ十分自虐だ。何しろ朝日新聞には本当のことが書いてあると思っているのだ。
 それでもちょっと待てと思った。

 いや全然違うと。

 おい白人、おまえ「違う」と。


 なぜだかわからないがそれは違うと、ぼくはそのオーストリア人に言った。
 何が違うのか自分でもよくわからなかった。

 それを帰国してから調べてみようと思った。
 そんなことを外人に言われたくないと思った。


 これがぼくにとっての「トリガー」だったのだと、今は思う。



 ヤンゴン到着の日と帰国までの2日間宿泊した宿に置いてあった「パゴタの国のサムライたち」という本がある。日本に留学経験のある宿のオーナーから紹介された本だが、これもトリガーのそのまたトリガーになっていたと思う。
 ぬるくなったミャンマービアを飲みながら、一人泣きながら読んだことを今でも覚えている。
 もちろん帰国までに読了した。

 時期が前後しているかもわからないが、この頃「台湾論」にも出会ったと思う。
 ネット上でも連中の悪事や、サヨクの言う捏造の歴史がどんどん明るみにされていた。
 これらを通して、一気に目の前が開けていった。
 幼少の頃「なんとなく」感じていた「違和感」は、無い事は無いがほとんど感じなかった。

 おい朝日、おまえ「全然違う」と思った。


 まあこういう話です。
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